学校教育について

朝まで生テレビに触発されて。しかし、やはり司会の田原は鬱陶しい。朝生以外にも司会者としてオファーがあるわけだし、司会のノウハウに精通してる人から見れば彼は腕利きの司会者なのだろうか。

「子供を出来るだけ有利な条件で社会に適応できるように仕立てる」というのは教育の定義としてそれなりに普遍的に使えると思う。で、その意味での教育は歴史的にみると、社会全体で取り組んできたらしいと何かで読んだ。(子供の定義はその社会の構成員として期待されているがまだ未熟な存在とする)で、現在の日本の教育システムは家庭や地域がかつて担ってきた役割すらも学校という社会の一部分に期待する連中が増えてきているらしい。それは問題だと思うが、その層の連中は社会の端っこで苦しんでいても俺とはあまり関係ない気がするので大して興味はない。

学校のテストで良い点を取っていき、良い大学を目指すモチベーションを支えていたのは、それがブルーよりも遥かに割りの良いホワイトカラーや支配階級である高級官僚、高めの社会的地位等への王道だからだろう。次点以後になら、競争に勝つことや未知を既知にすることで得られる等の快楽があるだろうが。

学校での評価の本質は、知的水準云々よりも、社会適応度だと思う。決められた曜日に、決められた時間に、決められた場所に拘束されて、退屈でも我慢して与えられたことをこなす。これが現代においては、社会の中で生きる際の基本的なパターンなのだから、それを身に染み込ませるのは当人にも大きなメリットがある。
「学歴社会」において、多くの一流の会社が一流大学生を求め、彼らに期待したのは、一流の大学において教育された知識、知能なのではなく、面白くない学習生活に耐えた実績を支えたであろう会社への適応可能性だろう。

この、学校で評価されることのメリットに気づくのには個人差がある。同等の評価を得るのに必要な努力にも個人差はある。だからある程度の画一的、押し付け、詰め込み教育は必要悪なんだと考える。
押し付けでは身につきにくいが、かといって社会の仕組みの説明もしないままに、「これ(高確率で低賃金労働者へと進んでしまう程度)以上は義務にしないからやるかどうかは任せます」というのはフェアじゃない。ゆとり教育は格差を広げ、低賃金労働者の「もっと勉強しておけば良かった」という愚痴を増やすことに貢献するだろう。それが国益に繋がるかどうかはよくわからんが。