「燃え」についてちょっと考えてみた

普段気軽に連呼してる言葉の定義について軽く自分の場合をまとめてみたい。
「燃え」と呼称したいある種の感情の高ぶりがある。これを感じた状況を振り返ってみると色々あるのだが、全ての共通項は「何かしらを乗り越えるべく励む行為」いわば「闘争」だ。つまり「燃え」はある種の闘争の中に見出される。それぞれの闘争を構成する要素で「燃え」に貢献するものとそうでないものを見出し、それらを比較考慮して俺の感情が「燃える闘争」と「燃えない闘争」を導き出すのだろうと思う。要は好きな材料や上手な調理方法で出された料理に舌鼓を打つようなものか。

俺が物語において独創性を重視しないのもこの嗜好と関わっている。「燃え」に貢献する要素は古今東西出尽くした感があり、初物にこだわってそうでないものを避けてしまうと堪能する機会が激減してしまうからだ。既出で馴染みの材料や調理方法だろうが食べて旨ければ文句がない。昔は捨てられていたらしいマグロのトロを広めてくれた奴が素晴らしいのは確かだが、トロを使っていいのはそいつだけだとか、そいつ以外が扱うトロが皆不味いわけでもない。せっかく開拓したトロという素晴らしいネタに触れる機会が増えるのであれば、生じるかもしれないデメリットなど大したものではない。飽きは確かな減点要素だが美味ければ容易に覆る。
さらにいえば、独創性なんてものは少し突っ込めが容易にケチがつく。誰かが独創だと思ったとしても、単に既出であることを知らないだけということがほとんどだし、そうでないという、完全唯一の独創だという証明も不可能に近い。